オカルト(中心)ライターのスピンオフ原稿

キャリア28年の翻訳家/ライター宇佐和通の日々のあれこれ

トランスエイジなのか?

連休がとうとう終わってしまい、明日からフルの1週間が始まるという驚愕の事実を突きつけられて戸惑うばかりの宇佐和通です。

 

まあ、新しい週はベストヒットUSATVのライブ配信もあるし、夏から秋に向けてのイベントの打ち合わせもあるし、楽しみの要素はあるので、それを支えに過ごしていきます。今朝、朝ご飯を食べた後にスマホをなんとなく見ていたら、「トランスエイジ」という言葉が目に入りました。ごくざっくり言うと、実感している年齢と生物学的な年齢にギャップがある状態という意味です。実は僕、これに近い感覚をかなり昔から抱いています。詳しく言うと、僕の実感年齢は38歳くらいで止まりました。だから、実年齢とは20歳以上のギャップがあることになります。

 

大人としてそこそこの責任感もあるし、常識もあるつもりなのです。でも、誰かと話している時に「普通はさ」みたいなまくら言葉で会話を始められると、「それはお前の普通であって、世の中にあまねく通用する普通ではないし、ましてや俺の普通ではありえない」という姿勢のスイッチが入って、一気に攻撃モードが整ってしまうのです。考え方が稚拙であるとか幼いとか、若いとかいうのとはちょっと違うのです。

 

ごく一般的なイメージでものを言います。60歳にもなれば、しっかりとしたキャリアを終えて夫婦で海外旅行みたいな人たちが多いかもしれないし、そこまで優雅ではなくてもそれなりに安定した暮らしをしている人が大多数だと思うのです。

 

しかし僕はどうか。やっていることは38歳当時とまったく変わらず、支払いの波にのまれてピンチに陥ることもしばしばだし、そういう意味から言えば安定という形容はまったくあてはまりません。

 

その反面、本当に好きに生きてきました。かなり長い間海外に住んでいたし、奥さんともやりたいことはすべてやってきました。で、コロナ禍の時なんとなく生き方が正しかったようか気がしたんです。やりたいことは、すぐにやったほうがいい。じゃないと、どうしようもない不可抗力にとらわれてしまうこともある…。

 

というわけで、結論として僕は世間一般の60歳よりもはるかに幼いし、安定してもいないということになります。そんな自分の本質を表す言葉として、トランスエイジは見逃せないのです。

 

今日もここまで読んでいただき、ありがとうございました。次回のアップでお会いしましょう。